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By taninaka06262025年3月15日In Design未分類

湯河原・真鶴に帰って起業してみた話(第一話)

はじめまして。遊巧舎の谷中です。

このホームページ作ってしばらく経ちますが、ずっとやりたかった「遊巧舎だより」を始めたいと思います。起業のこと、資金調達、営業、日々のコミュニケーションで感じたことなど幅広く書きます。

29歳で創業し約7,000万円の調達を経て、今後どんな方向に進むのか?書いてみようかなと。

第一話である今回は、地元湯河原・真鶴に戻って起業して1年経った今、振り返りメインです。

※第一話からはじまるのですが、前置きが長いので、実際の遊巧舎創業や資金調達など具体的な話は第5話くらいからになると思います(笑)

遊巧舎の基本情報と代表自己紹介

合同会社遊巧舎は、湯河原出身の谷中駿太が2024年に創業しました。

人中心の設計思想で、Key outcome(商いを通じて社会にもたらされる価値)最大化をめざし、中小企業経営者や高齢者向けの伴走支援を生業に。草刈り、引っ越し、清掃代行から起業支援、マーケティング支援、業務改善まで幅広い接点で全国に向けてサービスを提供しています。

私の職歴を簡単に書くと、学生時代に宮大工の親方の元でアルバイトを始めた事を皮切りに、ベンチャー企業(越境EC)法人営業インターンを経て、新卒で富士通株式会社に入り、初めの2年間は新規事業企画、続く5年間は小売業界向けのマーケターとして様々な経験をさせて頂きました。これまでに4社創業し、便利屋、写真事務所、映像制作、HP制作、草刈り屋、BBQ機材レンタル業など「手当たり次第にやってみる」感じ20代を過ごしてきました。そのうちの1社がこの遊巧舎で、唯一私自身が代表を務める1人会社です。

なぜ遊巧舎を創業したか?

近所の大工の親方、大学教授、そして父親から大きく影響を受けています。

なんで起業したんですか?ってよく聞かれるのですが、よくWantaedlyやSNSで見るかっこいい創業ストーリー(キラキラしたやつ)的なのは無いです。笑

ここでは、私の人生と遊巧舎の創業に大きな影響を下さった3名について紹介します。

幼少期から経営の話をしてくれた父親

私が創業した時、父親は公務員でした。

ただ、いわゆる公務員ではなく20代でNPO法人のサッカーチームを創り(一時はJ3まで勝ち進みました)、その後IT企業の未経験エンジニアから役員を務め、50歳半ばを過ぎてから国家公務員になったのでした。(父もなかなか変わったキャリアの持ち主ですね。。)

そんな父から、小学生の頃オセロを打ちながら、経営、資本論などの経済について話をよく聞かされていました。当時はそこまで興味もなかったですが、いま振り返れば貴重な機会でした。高校入学するくらいのタイミングで世界的なビジネス書「七つの習慣」を進められ、そこから3年間読み続けました。

父からは色々なテーマについて学ぶ姿勢を教えてもらい、中学卒業するころには「きっと自分でなにかしらやってるのだろうなぁ」とふわっと思い描いていました。

NPO法人という特性が身近にあり、いつか父の様に地域に貢献する組織を創りたいと思っていました。

ちなみに父とは今でもほぼ毎週末会い、共に食事をしている仲です。

初めてバイトで世話になった株式会社杢巧舎

高校2年生になって間もなく(6月ごろだったか?)、人生初のアルバイトを始めました。

「自分が行動したことでお金を貰えるんだ」ワクワクして作業着を買いに行ったことを覚えています。

朝6時半ごろに家の前に付いた軽箱。伊豆山を超えて函南へ向かう。

新品の腰袋をもらい、新築工事中の現場で、木のダボを鋸で落としたのがバイトの始まりでした。

伝統工法の工務店が私のバイト先でした。親方である木村真一郎さん(現:株式会社杢巧舎の代表大工)には私が小学生の頃、地域に伝わる囃子を教えて頂いており、当時から「この人は間違いない」とずっと尊敬していました。そんな尊敬する親方の元で、大学卒業するまでの6年間、現場や刻み場で沢山ことを教えていただきました。

「起業したいのですが、個人事業主か法人かどちらが良いでしょうか?」大学に進学してから少し経った頃、親方に聞きに行きました。

「生意気なことを言うな。1,000万円稼いでから考えろ」と言われたことを今でも覚えています。

それまでは何となく「起業」という言葉だけ頭の中にあったのですが、その時から「1,000万円稼いで親方を驚かせたい」という思考に切り替わりました。

(その後21歳で売上1,000万円突破して報告しに行ったら、

「俺、そんなこと言ったっけ?」といつも通りの親方でした。笑

大学で企業財務に興味を持つ

渋谷の國學院大學(経済学部経営学科)に進学し、オリエンで友達を見つけ、しばらくはサークルの新歓をハシゴし、まぁ何となく東京の大学生っぽい生活が始まりました。

目黒区の祖母宅近くで一人暮らしを始めたのですが、田舎出身の私には土地の雰囲気がどうも寂しい。

ニュースで見聞きしていた「東京は希薄な横の繋がりで、、」「老々介護が進み、、」を身をもって実感しました。高級住宅街でも庭は草ボーボー、そして病院に行くタクシーも予約が取れない。って感じです。

「ここで自分に何か出来る事は?」と考えた結果、草むしりや網戸張替えくらいはできるだろるはずだ!!!

気が付いたら、ホームセンターで草刈り鎌とチリトリを買い、100枚500円のネットプリントで名刺を作り、Twitter(現:X)で宣言して何でも屋ナイス谷中をスタートしました。

当時は知識も人脈もお金もなかったですが、時間と、過去に地域で教えてもらった生活力はありました。それを最大限活かしスモールスタートしました。

このあと、自分の人生は大きく変わる出会いを果たします。

当時、大学内で教授のアシスタントのバイト募集があったので応募し、たまたまマッチングした教授のサポートをすることになったのですが、その教授が秦信行教授でした。

秦先生は、野村総研、JAFCOを経て教授になり、多くのスタートアップ企業の役員を務め、ベンチャー学会の理事もしていました。

「この人の元で学びたい」と考える前に、自然と体が動き、朝から晩まで秦先生の研究室に入り浸りました。朝通学するときは先生が家まで迎えに来てくださり、一緒に朝ご飯を食べ、それぞれ授業に行き、一緒にランチをして、帰り先生が飲むときは私が家まで運転して送り、先生が仕事で行く経営勉強会に付いていき、本当に多くの事を学ばせて頂きました。秦ゼミがあったから、大学に行ってよかったとも思えました。

創業期から上場までのフェーズを中心に、企業財務を秦ゼミで学び、ゼミの先輩の紹介でベンチャー企業で1年ほど法人営業のインターンとして働き、自分の商いである「何でも屋ナイス谷中」を拡大していきました。

秦先生と過ごす時間では、特に人との関わり方や物事の考え方を見て覚えるのが楽しかったです。

前身である何でも屋ナイス谷中とその他の挑戦

なかなか、遊巧舎創業までの前置きが長くてすみません、(笑)

この前置きこそが遊巧舎なので、もう少しお付き合いください。

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